電話占いセブンスティアラ

鑑定受付番号(営業時間:午前9時〜翌朝4時30分/年中無休) 0120-677-765
電話占いセブンスティアラ > 霊能者人生の物語

霊能者人生の物語

多くのご相談者様からの素朴な疑問にお答えし、ここでは電話占いセブンスティアラに所属する霊能者の先生方がどのような道を歩んで、皆様の幸せに貢献する「霊能者」という職業に就いていたのか、その歴史を語っていただくコーナーです。
人の人生はそれこそ十人十色。しかし電話占いセブンスティアラに所属している霊能者の先生方は、自分が霊能者であるということに誇りを持ち、皆様を明るい人生へと導くことへ喜びを感じられている「本物のプロフェッショナル」ばかりです。
「人生は美しい…」そんな言葉が自然と口をついて出る未来へとお導きする、その使命を担った霊能者の先生方それぞれのヒストリーをご紹介します!

それは私が三歳の頃でした…

S県の田舎に生まれた私は、幼少時よりあまり体が丈夫ではなく、しょっちゅう熱を出しては幼稚園を休む子供でした。両親は共働きでしたので、主に父方の祖母が私の面倒を見てくれて、本当に可愛がってもらったことが懐かしく思い出されます。それまで私は聞き分けがよくて、大人しい子供だったということなのですが、ある日を境にまるで別人になったように変わったと、成長してから家族に聞かされた事があります。 それは私が3歳のときでした・・・曇り空だった4月9日に(なぜかハッキリと天気と日付を覚えています)、いつものように熱が高く、幼稚園を休んで祖母と一緒に布団に横になっていると、急に耳鳴りがして頭が割れるように痛くなったのです。 その頃は耳鳴りなど経験したことがなかったので、パニックを起こした私は祖母にしがみついて、必死に何か喋ろうとしたのですが上手く言葉にならず、ただ身もだえしながら涙を流していました。祖母はそんな私の顔を見て、とても悲しそうな表情をしていました。私はとにかく頭が痛くてどうにかして欲しいのに、まるで助けてくれない祖母の姿を、信じられない気持ちで横目に捉えていました。
「ごめんね・・・」
祖母が悲しそうな顔をしたまま私の頭を触った瞬間、祖母は口を開いてもいないのに、突然私の頭のなかに声が響いたのです。
同時に割れるようだった痛みもすぅっと消え、私はそのまま眠ってしまいました。

その日を境に、私は他の人が見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになったのだと思います。
例えば、父の友人が遊びに来たときにこんなことがありました。
その人は、私が生まれる前からよく遊びに来ていたという人で、いつも手土産を持って遊びに来る人でした。あの日以前の私は、抱っこをされたりひざの上に座らせてもらったりして可愛がってもらっていたのですが、その時は何かいつもと違う感じがして母親の影に隠れていました。その友人(私は○○おじちゃんと呼んでいました)は、私が呼んでも来ないことを不思議に思ったらしく、自分で持ってきたお土産の袋からアイスクリームを取り出しました。そして私に向かって「これなーんだ?」と訊ねたのです。私はその頃まだ「アイスクリーム」と言う言葉が上手く言えませんでした。するとその時、急に目の前に映像が浮かび、おじさんがまた私に「あいしゅくむーり」と言わせて大笑いしている姿が見えたのです。私はそれをみて、恥ずかしいとも怒りともいえないような気持ちになり「どうしておじさんはまた、私のことを笑おうとするの?」と聞きました。
子供にしてはあまりにもキツイ言い方だったらしく、その場にいた大人たちは焦ってしまったと、大人になっても母から何度も言われました。 しかも同時に、おじさんが持ってきてくれたお土産が、その時に限って人からの貰い物を袋に入れてきたことや、途中でアイスクリームを買ってきたのだけれど、やはり私の父や母に手渡すことに自分を恥じる気持ちがあること、だから来たばかりの時に私はおじさんに違和感を覚えたのだなど、様々なことがわかりました。 それが私の覚えている最初の「体験」でした。

祖母の存在が私を助けてくれたのです

でも本当に私が幸運だったのは、祖母が一緒に暮らしていたという点です。あの耳鳴りのときに聞こえた「ごめんね・・・」という声は実は祖母が私に伝えたものだったのです。祖母も幼い頃から私と同じ能力があり、それによって人の心の汚さ、弱さを知ってしまうこと、さらにそれを隠して生きていくことの辛さに随分と悩んできたというのです。そして私は全く記憶に無いのですが、私が生まれる前に祖母の夢の中に挨拶に来たとも言っていました。
結局そのことで生まれてくる私にも同じ霊能力があると知った祖母は、私が生まれてすぐに祖母の田舎である青森のお寺で、私の霊能力を「封印」する儀式を行なったのだそうです。 ところが、あの3歳のときの出来事で、祖母の言葉を借りれば「霊能力が開いてしまった」のです。肉体と精神に対して大きすぎた能力が行き場を求めて、私の中でバランスが取れなくなっていたのが、すぐに高熱を出してしまう原因だったということも、それ以降風邪ひとつひかない健康優良児になった私が一番実感できました。小学校に上がる頃まで私は人と会うたびに、その人がどんなことを考えているのか、どういう願望を持っているのかわかることが面白くて、時折本人に向かって直接言ってしまうこともありました。
でも後になって思うと、一般社会でそういった子供は周りの人から見れば「気持ち悪い」子供だったのだと思います。実際に幼稚園の先生の一人はあからさまに私を避けていましたし(その先生にも霊能力があったのかもしれませんね)、しょっちゅう霊が見えることも、私がそれを口に出すと怖くて泣いてしまう友達もいました。その当時、もしそういったことを大人に叱られたり、両親に気味悪がられるようなことがあれば、私自身、今の職業には就いていないと思います。そう、私には祖母という絶対的味方がいたのです。両親に対しての説明や、私が口にすることを「当たり前」のように聞いてくれたこと、まわりの人たちにも「あの人には何が見えても、喋っちゃダメだよ」などの助言など・・・。私は祖母のそういったきめ細かいケアのおかげで、自分の霊能力を「辛いこと、苦しいこと」また「他の人と比べて変わっている」といったマイナスイメージで考えることなく、スクスクと成長することが出来たのでした。

仕事にしてみたい!もしそれが可能なら…

思春期から、そうですね二十代後半くらいまでは人間関係で苦労することも確かにありました。他の人が分からないからこそ、うまくいくことのほうが多いということがよく分かったという感じでしょうか。特に嘘をついていたり、常に強く思っていることに関してはすぐに見えてしまうので、職場や、ここでは申し上げにくいのですが恋愛などでも「それを含めて人間を受け入れる」という心境に至るまでは本当に大変でした。ですので人が多い場所での仕事や接客業などは自然と遠ざかり、職人的な仕事を黙々とこなすという生活になっていきました。 ちょうどその頃、祖母が大きな病気を患ったということもあり、子供時代以来、毎日祖母と過ごしていた時期のことです。
いつも通りに病室で祖母と他愛のない話をしていると、突然祖母が「私は今回の病気は一度良くなるけど、退院してちょうど3年したらお迎えが来ちゃうのよ」と言うのです。私は体が震えるほどショックを受けました。取り乱して何度も「死なないで」とすがりつきました。ところが祖母の答えは「こればかりは仕方がない」の一点張り。
誰にも言えない悲しみに涙する日が続き、それからしばらくして祖母が退院する日が来ました。
家に帰ってきた当日、祖母は二人だけで話がしたいと、私をベッドの前に座らせました。しばらく何も言わず眼を閉じていた祖母は思い切ったように話し始めました。
「もし、お前がどうしても嫌でないのなら、ちゃんとした勉強をしてその霊能力を人の役にたてたらどうだろう」
私はこの霊能力が、人の役に立つものだとは考えたこともありませんでしたので、驚いてしまいました。
「役に立てるって言ったって、いったいどうすればいいの?ただ単に気味悪がられるだけじゃない」でもそれは、私の本心ではありませんでした。もし本当にそんなことが出来るなら、やってみたいという気持ちが大きく心を占めていたのです。
「うまいこと霊能力を調節すれば、お前自身今よりもずっと生きやすくなるんだよ」
この言葉で、私の心は決まりました。
それからは、必死になって占いの勉強をしました。たとえ相手のことが色々視えても、ただそれを伝えるだけでは占いとは言えないでしょうし、一番大切なのは私が占った人が幸せになってくれることだと考えたからです。そして様々な占術を学ぶ中で、私の霊能力も占術の一つに過ぎないということを知り、組み合わせたり相手に合わせて変えることで、より精度を上げたり、良くない状況から抜け出すための的確な助言が出来るようになっていったのです。


2年を過ぎたあたりから、はじめは知人や、クチコミで私を訪ねて来た方を占っていました。しかしそれほど家が広いわけでもありませんし、何より私自身の生活もありますので、しばらくすると「人に喜んでもらうのは嬉しいことだけど、このままでは続かない」と頭を悩ませることになりました。
さらに祖母が自分で話していた「退院してからちょうど3年」の日も近づいていました。私としては、自分のペースが崩れてしまうと占い自体が大きなストレスになってしまうこともあり、なんとか続ける方法を探すことにしたのです。

宿命から必然へ

その頃祖母は普通に生活していましたが、私の頭から「3年後」のことが離れることはありませんでした。どうにかして生きているあいだに、私が生き生きと「人の役にたっている」姿を見せたいと思った私は、思い切って祖母に相談したのです。
「それなら占いの会社に雇ってもらえばいいんじゃないか」
祖母の答えはいたってシンプルでした。いつも私が思いもよらないことを、サラッと言ってのけるのが祖母なのです。
そうして二人で「会社探し」を始めたのです。私の家では今ほどインターネットが整っていなかったので、主に雑誌の広告を見て電話をかけるという方法でした。一週間ほどそれぞれに探してから「どこがいいと思う?」と祖母に聞くと、「私にはここが一番いい印象だった」と差し出したのが「セブンスティアラ」の広告だったのです。
それをみて、私は本当に納得しました。なぜなら私の中で「ここだ」と考えていたのも「セブンスティアラ」だったからです。
心を決めてもう一度電話をかけ、オーディションを受けさせていただき、採用が決まりました。こう言うと偉そうに聞こえるかもしれませんが、すでに電話をかけた時点で採用は確信していましたね。今さらですけど・・・(笑)。

あれからもう4年も経つのですね・・・。本当にあっという間でした。スタッフの方やリピーターの方たちとの信頼関係も築くことが出来て、今の私は霊能者として本当に恵まれた環境で仕事をさせていただいているという気持ちでいっぱいです。
ところで問題の祖母ですが、例の「3年」が過ぎてもピンピンしていました。最初は嬉しかったのですが、そのうち自分だけが焦っていたような気持ちになって、ある日直接訊ねると、祖母は「ああでも言わなければ、お前はあのまま不器用な生き方を続けて、今みたいに生き生きとはしていないよ」と嬉しそうに笑ったのでした。
もう、そう言われると私も泣きながら笑うしかなくて思わず「ありがとう」と祖母に抱きつきました。
そんな祖母も、去年亡くなってしまいました。しかもそれは退院してからちょうど「5年」が過ぎた日でした。でもその間に私は今の仕事に理解のある男性にめぐり合うことが出来、遅くなってしまったけれど両親と祖母に花嫁姿を見せることも出来ました。
今でも思い出せば、いつでも胸がいっぱいになってしまう祖母ですが、きっと思い残すことなく旅立てたと思います。
思えば、いま私が「電話占いセブンスティアラ」で仕事をさせていただいているのは、祖母に導かれた「宿命」のなのでしょう。そして、これからも「電話占いセブンスティアラ」でご相談者様が幸せになるお手伝いをしていくことは私の「使命」であり「必然」だと考えています。
随分と長くなってしまいましたが、祖母と「電話占いセブンスティアラ」で知り合えたすべての皆様への感謝の言葉で、筆を置かせていただきたいと思います。 「ありがとうございます」